1985・8・12 日航機墜落事故

はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」

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 1985年8月12日。私は17歳の男子高校生でした。そして、17歳は特別な年齢と思っていました。「この1年はとても大切。だから、何か特別な事をしなくてはいけない」と気負ってはいました。しかし、何をやったら良いか自分で何も分かっていませんでしたし、誰も何をしたら良いかなんて教えてはくれませんでした。No Plan is My Life. 結局のところ、当時の私は、隣の女子校の子にどうやったら声をかけられるかなんて事をホットドックプレス(当時のティーン男子向け雑誌)読みならが綿密な策を練るなどの、アホ高校2年生男子の必須科目であります「時間の無駄使い」をトップクラスの成績で専攻しておりました。

 

1985年、TV業界では、秋元康氏がプロデュースするおニャン子クラブという素人集団がアイドルグループとして人気に火がついた年でした。とんねるずは、まだ小ブレイクしたくらいで、学生気分と勢いだけで芸能界に殴り込んでいました。政界で言えば、アメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガン。日本は中曽根康弘首相が第二次内閣を形成していました。また、ソ連(現ロシア)共産党書記長にゴルバチョフが就任をした年でもありました。同じ年の9月にはプラザ合意が発表され、その後、日本はバブルへと突き進むことになるのですが、1985年頃は、まだ、その後のバブル繁栄と失望を夢にも思っていない時期でした。

 

1985年8月12日の夕方。夏休みで実家にいた私は、慌ただしく夕食のそうめんを作っている母や叔母などを横目に寝っ転がってTVを見ていました。私の実家では、お盆前の準備の為に、お盆前の8月12日くらいに親戚が集まり、8月13日のお盆を迎えるというのが恒例になっていました。その頃、私はそうめんが大の苦手で。そうめんというか薬味の茗荷がなんとも嫌だったのです。その時も「そうめんかぁ。。」と残念な気持ちでダラダラと夕食待ちをしていました。

 

とにかく暑い日でした。当時、エアコンがなかった我が家では、扇風機2台を置き、平テーブルにそうめんを並べて、親戚一同でそうめんを食べていました。そうめんを食べ終わり、片付けをはじめたくらいだったように思うのですが、TVが突然、特別番組に切り替わりました。第一報は、日本航空ジャンボ機が行方不明になったということだけだったと思います。まだ、その時はそんなに情報がなく、行方不明ということを繰り返し言っていただけでした。ですが、ブラウン管(当時は、液晶というものがなく、TVはブラウン管モニタでした)を通しても、報道現場の切迫感が伝わってきました。情報は錯綜し、全てが慌ただしく、見ているこちらも胸がサワサワするような感じで目が離せなくなっていました。おそらく、そんな緊迫感を感じてだと思いますが、親戚じゅうでTVに釘付けになってニュースを見ていました。

そして、とにかく暑かった。

 

その夜、私は不思議な夢を見ました。あたりは夜で、私はどこかに横たわっていました。近くに火がありとても暑いのですが体は動きません。遠くで「助けてくれ」「まだかー」などの声が聞こえてきてとても怖かったのですが、とにかく移動せねばと思うものの、体が全く動かないので何もできません。一方、どこか落ち着いてもいて「あぁ、俺はこれで死ぬのかな」などと冷静に思っていたところで、突然、目が覚めました。起きてみると、汗びっしょりで、布団まで濡れているような状態でした。

 

翌日の朝から、各TV局のニュースは日航機墜落事故の話題一色になりました。乗客・乗員の名前が繰り返し報道され、段々と現場の様子が映像として入ってくるようになり、生存者4名の救出場面などが繰り返し流されていました。520人が犠牲になった航空史上最悪の事故として、日本のみならず海外でも語り継がれることなる事故報道の始まりでした。

 

それらのニュース映像を見ながら、私は夢でみた事故現場を思い出していました。しかし、どうしてだか不思議と怖さはありませんでした。感じていたのは「ちゃんと生きなければ」という思いでした。いつ何時、人生が思いがけない理由で絶たれる事もあるのだから「悔いなく生きたい」と強く思ったのを覚えています。夢で見た現場、悲惨な事実、より過激にと進んでいく報道、興味でしか語らない人々、それらが渦巻いて、そのような気持ち向かったのだと思います。

 

それからというもの、私は心を入れ替え、猛勉強の末、東大を首席で卒業し、ハーバードでMBAを取得・・などとなれば良いのですが、人生そんなに甘くもなく。一浪ののちに、埼玉の三流大学に進学し、卒業後、当時流行りだったIT企業に就職しました。

 

私が入社したのは1992年。それはバブル崩壊中の時期でした。80年代にJapan as No.1として持ち上げられ、いい気になっていた日本が、その後のバブル崩壊や格付け引き下げなどでプライドをいたく傷つけられまくっていのたのが、1992年頃です。しかし、まだバブル経済の名残りで経済は潤っていました。そのため、いわゆる就活もかなり容易で、引く手あまたの超売り手市場。履歴書持っていけば、直ぐに内定が出るような時代でした。

 

そのような時代でしたので、当時の新入社員どもは会社を舐めていたところがありました。私も御多分にもれず、会社を大学の延長くらいに考えていました。真面目にやるのはバカのやることくらいにも思っていました。そして、そのバブル脳を抱えたまま、4月からの新入社員研修に突入していました。

 

ある時、新入社員研修で新製品の紹介資料を作成するという課題が出ました。いくつかのグループに分けられ作業をしていたのですが、私が属したグループに、一年先輩が一昨年に作ったという資料を譲り受けている同期社員がいました。その課題というのは、毎年、同じように出されていたもので、まだ学生気分の抜けない私たちは、あろうことかその資料をほぼ丸写しにして資料を作り、早めに提出して、そのまま、飲みに行ってしまいました。私たちは上手くいったと得意げで、罪悪感はかけらもありませんでした。

 

翌日、その時のトレーナーが壇上に立ち、静かに話はじめました。もちろん、資料を丸写しにしていたのは気が付いていたと思います。一言一句を覚えているということではないのですが、そこで言われた趣旨は、今でも、はっきりと覚えています。

 

トレーナー:

「あなた達がどのような社会人として生きるのかは、あなた達が選択をするのであり、誰かに押し付けられる様なものではありません。今回の課題をどうこなすかも、あなた達自身で決めたことであり、私がそれついて何かコメントをするつもりはありません。これからの社会人人生の多くの場面で、仕事の評価は、本人の知らないところで下されます。学校では、はっきりとした成績という形で評価されますが、会社という組織ではあからさまに真正面の評価はしません。ふざけて仕事をしようが真面目に仕事をしようが、おそらく、それを咎める人はいないでしょう。それに、真面目にしたからといって、それが良い仕事ぶりということでもありませんし。だからこそ、自分でどう仕事と向き合うのか、自分で選択するということが大事だと私は思います。

 

日航機墜落事故というのを覚えているでしょうか。1985年8月12日でしたね。あの時、私はあの飛行機に乗る予定でした。当時、私は大阪事業所でエンジニアをしていて、あの日は東京出張でした。そして、あの便を使って帰る予定でした。ですが、お客様との打ち合わせが延びて、あの便をキャンセルしたのです。

 

事故を知ったのは、宿泊した茅場町のホテルでした。TVのニュースで知ったのですが、臨時ニュースを見てからというもの、ずっと手の震えが止まりませんでした。最初は、もしかしたら行方不明だけで、すぐに見つかるかもしれないと淡い希望を持っていましたが、その夜は、どうにも寝れない感じでした。ですが、少しだけうとうとできて、その時、夢を見ました。その夢で、私は山の中にいました。近くに火がありとても暑いのですが体は動かず、遠くで「助けてくれ」「まだかー」などの声が聞こえてきて、とにかくとても怖かったのをはっきりと覚えています。起きたら、汗びっしょりで、ベッドが濡れているくらいでした。その時、”あぁ、ダメなのかもな”と思いました。

 

起きてTVを見ていたのですが、もう絶望的な報道ばかりで。”すごいことが起きているんだ"ってことだけしか考えられませんでした。生存者が見つかると、少しでも少しでもって思いましたよ。でも、4名だけでしたよね。助かったの。

 

公にはなっていませんが、この会社の社員も、あの日航機に搭乗されていた方がいて、2名亡くなられています。私は、その方々を直接には知りませんが、それ聞いた時に思いました。”やりたいことをやろう”と。亡くなった方の意思を背負ってとか、あの方々の代わりになんて大れたことではないのですが、何かね、残してもらった命ですから、自分で判断して納得できる人生を全うしたい、そう思ったんです。

 

それで、何をやりたいかを考えた時、”人に何かを伝える仕事をしたい”って思ったんですね。それで、転属願いを出し、それ以来、トレーナーをやっています。

 

みなさんは、今、社会という海の中に、何も持たずに投げ出された状態です。これから、良い時もあれば、苦しい時期もあるでしょう。ですが、少なくとも自分で選択する社会人生活を送って、納得できる人生を歩んで欲しいと私は思います。」

 

その場が暫く静まり返りました。バカ学生の成れの果ての様な、バブル新入社員だった私たちですが感じるものがあったのだと思います。それ以来、皆んなの態度が変わったのは手にとるようにわかりました。何かスイッチが入った感じで、ふざけて研修を受けるようなことも無くなりました。そして、新人研修を終え、私たちは、それぞれの配属先に飛んで行きました。

 

私もトレーナーの方の言葉を胸に配属先で精進し、若くしてマネージャーを歴任、キャリアを順調に積みながら、今は代表取締役に、、ってなるほど世の中は甘くなく、今も平凡な平社員をやっておりますが、迷うことがあった時、この時の言葉を思い出し、自分で考え、自分の意思で決定を下すようにしています。

 

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