一生に一度のお願い
今週のお題「お気に入りの靴下」
「一生に一度のお願い」は、実際には一生に一度であったためしがありません。
それは、誰もが知っている事実と言って良いのではないでしょうか。
私は、それを小学生の時に、友人のタカシくん(仮名)から学びました。
タカシくんは、毎日のように「一生に一度のお願い」を連発していました。
時には、”一生に一度のお願い”を1日に2回してくることもありました。
「消しゴム忘れたので貸してくれ」
「宿題見せてくれ」
「掃除当番変わってくれ」
「プロ野球チップス買いたいけど、10円足りないので貸してくれ」
願い事の多い小学生。
それがタカシくんでした。
そして、タカシくんの頼み事には、オンリーワンの上の句のように「一生に一度のお願い」のフレーズがついてきました。
「一生に一度のお願いだから、そのマンガ見せて」
など、彼の”一生に一度”はかなりポップでした。
しかし、ある時、タカシくんから本当に「一生に一度のお願い」に近いレベルの懇願をされたことがありました。
あれは授業が全て終わった放課後、学校に残って友達と隠れんぼのような遊びをしていた時でした。
私はタカシくんと一緒に校舎裏の用具倉庫に隠れました。
私はそういった場所が好きな子供でした。
学校に沢山いる人の誰もが気にかけないような取り残されたエリア。
そのヒヤッとした、ちょっと怖い感じも惹かれるものがありました。
私たち二人は、そのカビ臭い倉庫の隅っこで息をひそめていました。
すると、暫くしてタカシくん様子が少しずつおかしくなりした。
タカシくんがソワソワと落ち着かなくってきたのです。
”なんか変だな”と思っていたのですが、突然、タカシくんが意を決したように小声で
「ウンコしたい」
と言い出しました。
しばらくモジモジしていましたが、とうとう我慢できなくなったのでしょう、
「一生に一度のお願い。ウンコするけど誰にも言わないで。」
と涙目で訴えてきました。
女子には理解できないでしょうが、当時、男子には”学校でウンコすることは重罪”という訳の分からない鉄の掟があったのです。
私は、タカシくんの真に迫った願い事に「分かった。何も言うな。」といった感じで頷きました。
すると、「本当だよ。一生に一度の約束だよ。」と振り返り振り返り念押ししながら、タカシくんは早足に校舎のトイレに消えていきました。
私は、ばらしたい気持ちも大きかったのですが、不思議と「これは本当に言ってはいけない事だ」と強く感じ、約束通りこの事を誰にも言いませんでした。
しかしです。
私の努力も虚しく、その3日後くらいに、タカシくんは2時間目と3時間目の間に学校のトイレでウンコしているところを友達に見つかってしまうという失態を犯してしまい「ウンコマン」というなんの捻りもない渾名をつけられて、しばらく虐められていました。
小学生のやることは残酷です。
「一生に一度のお願い」とは言われませんでしたが、母親から、それに近いレベルのお願いをされたことがあります。
あれは、2年くらい前の冬の初めでした。
母は、4年前に脳梗塞を発症し救急病院に緊急搬送されました。
助かるのは五分五分と言われていた状態から一命は取り留めたものの、脳に強い障害を負い左半身は完全な麻痺となり右半身も辛うじて少し動くくらいの状態でした。
言葉もほぼ失われてしまいました。
自分がどこにいるのか、どのような状態なのか、おそらく分かっていなかったと思います。
いくつかの病院を転院し療養型病院に入院していた2年前の冬に、私は母のお見舞いに病院を訪れました。
母は、病院のベッドで、所謂、寝たきり状態になっていました。
両手は硬直し丸まったような形のまま動かず、足も曲がった状態で伸ばせなくなっていました。
既に見慣れた姿ではありましたが、その衰えぶりに少しの間、呆けてしまいました。
私ができることといえば顔や体を拭いてやり、どこまで聞こえているかは分かりませんでしたが話しかけることくらいでした。
すると、母は何か言いたげになり、絞り出すように
「足がさむい」
と私に訴えました。
病院は人々を拒絶しているような少し寒気も感じるような佇まいでしたが、その印象に反して室内は これでもかって言うくらい暖房を効かせていて、母も時折、汗ばんでいるくらいでした。
私は病院の施設や布団もしっかりかぶっていることなどを伝え「寒いはずがない」ことをゆっくりと丁寧に説明しました。
しかし、母は繰り返し寒さを訴え続け、ゆっくりと
「おねがい」
と言いました。
普通に考えれば、この暑いくらいの病室で母の足を温めることは良いことではありませんでした。
しかし、もう残り少ないと思われる母の命を考えれば、母の思うようにしてやっても良いのではないかと考えるようにし自分を納得させました。
私は、近くの量販店に行って靴下を3足買いました。
厚手の赤い靴下でした。
病院に戻り、それを母に履かせてやりました。
母の足は硬直したままで、動かしていないため驚くほど痩せ細っていました。
母は靴下をはいて、一語一語ゆっくりと
「きもちいい」
と言いました。
その後、コロナ騒ぎで暫く見舞いにも行けなくなりましたが、看護師の方に聞くと、その赤い靴下をその後も履いていたとのことでした。
脳機能に大きなダメージを負っていた母でしたが、その表情から、その靴下がお気に入りであったことが分かったそうです。
母は別の世界に今年行ってしまいましたが、向こうの世界では足元暖かく安らかにしていれば良いなと思っています。
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